中国華北の世界遺産について〜世界遺産へ旅立つ前に

中国華北の世界遺産〜世界遺産旅行ガイド
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 こちらでは、中華人民共和国の華北地方にある世界遺産をご紹介しています。首都である北京を含む華北は、まさしく中国の中心地。国家としての中国を知る上で重要性の高い地域といえるでしょう。下位のページにて華北の世界遺産を個別に見ていきますが、その前にまずは華北の地理歴史を簡単にまとめ、この地方の特色、ひいては中国という国自体の概要を大づかみに提示したいと思います。ヨーロッパが産業革命を成功させるまでは世
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 こちらでは、中華人民共和国の華北地方にある世界遺産をご紹介しています。首都である北京を含む華北は、まさしく中国の中心地。国家としての中国を知る上で重要性の高い地域といえるでしょう。下位のページにて華北の世界遺産を個別に見ていきますが、その前にまずは華北の地理歴史を簡単にまとめ、この地方の特色、ひいては中国という国自体の概要を大づかみに提示したいと思います。ヨーロッパが産業革命を成功させるまでは世界でも屈指の技術力・国力を持っていたアジアの雄、中国の魅力を再確認するきっかけになれば幸いです。


◎中国華北の地理

 歴史的にも要地として扱われてきた華北は、おおよそ華北平原一帯を指しているのですが、厳密に平原と一致しているわけではありません。基本的には淮河より北で、かつ東北地方ではない地域を示します。ちなみに、中国全土を6つの区画に分ける現行の地理区分における華北地方は、河北省・山西省・内モンゴル自治区(内蒙古)と「直轄市」としていずれの省にも属していない北京市と天津市を表すことになっていますので、旅行の際は知っておくと便利でしょう。歴史的には、北方騎馬民族の支配地と近いことから異民族による攻撃を度々受けた地域であるといえます。時代によっては華北を含む北部一帯から漢民族の王朝が追い払われてしまい、異民族王朝の支配下に入ったこともありました。
 首都である北京を含むことから政治的な中心地のイメージも強い華北ですが、北京が政治の中枢となったのは清王朝以降であり、それ以前の主要王朝では西北地方に属する長安(現在の呼び名は西安)や中南地方の洛陽に都が置かれた例が多かったのです。


1.河北省

省都は石家荘です。
農業が盛んで、商業作物として綿花・タバコ・向日葵(食用油の原料になる)などが栽培されています。穀物も小麦・イモ類・トウモロコシなどが幅広く育てられており、比較的都市部に近い地域でありながら穀倉としての役割も果たしているといえます。
ちなみに世界遺産としてあまりにも有名な「万里の長城」の東端は、この河北省にあります。省内の山海関という場所が東端で、この山海関は明代に満州民族の侵攻を抑えるための関所として重視された場所です。実際、満州民族の激しい攻撃に耐え抜いた難攻不落の要塞として知られています。


2.山西省

省都は太原で、他の主要都市としては大同が知られています。
炭鉱や鉄鉱石の採れる鉱山があり、鉱工業を中心の経済活動が行われています。ただ、華北部の中では飛び抜けて貧しい地域であり、他の産業にはやや乏しいのが現状です。
19世紀頃までは塩の売買などを行っていた山西商人が独自のネットワークで金融を牛耳っており、為替業務を独占的に行うなどの大きな影響力を持っていましたが、中国経済が国際化していくに伴って衰退し、今はその時代の面影を完全に失っています。


3.内モンゴル自治区(内蒙古)

首府(自治区の首都にあたる都市)はフフホトで、最大の経済規模を持つ都市はウランチャブです。
モンゴル族の自治区なのですが、漢民族が多く流入していて、現在の人口の8割は漢民族となっています。モンゴル民族は400万人と少数派になっていますが、モンゴル国の全人口である267万人よりも多く、この地のモンゴル民族はモンゴル国への編入を強く望んでいるようです。ただ、中華人民共和国政府は独立運動を厳しく取り締まっており、民族の自由を求める勢力――モンゴル自由連盟党・内モンゴル人民党・南モンゴル民主連盟などの代表者・幹部が拘禁されるといった出来事も頻発しています。


4.北京

言わずと知れた中華人民共和国の首都であり、上海に次いで第二位の経済規模を持つ大都市になっています。
古くは三国時代から北平として北方沿岸部の主要都市とされ、その後も征服王朝である遼の都:燕京や、モンゴル王朝である元の首都:大都として中国史上の都が置かれてきました。ちなみに、現在に繋がる「北京」の名で都としたのは満州族王朝の清が最初です。
ただ、漢民族の主要王朝においては都とされた例がなく、漢民族による政府の首都とされたのは現在の中華人民共和国になってからのことです。


5.天津

対規模な港があることで知られ、経済規模も大きな港湾都市となっています。
歴史的には、日中戦争から日本敗戦までの1937年〜1945年までは日本軍の統治下にあり、その後1947年までは米軍基地が置かれていたこともありました。


◎中国華北部にまつわるエピソード
 〜歴史上唯一の浸透王朝とは

 中国史には漢民族が開いた王朝の他に、異民族が中国固有の領土を支配した征服王朝があります。特にモンゴル民族の元と満州民族の清は中国全土を支配したことで非常に有名です。しかし、異民族王朝には征服王朝以外にも浸透王朝というカテゴリーがあることはご存知でしょうか? 歴史上、このカテゴリーに分類される王朝はただ一つ、五胡の鮮卑族が中国北部に開いた王朝――北魏のみです。ここでは、華北を含む北側を統治しながら「征服」という言葉に当てはまらない希有な王朝である北魏の歴史をご紹介したいと思います。
 王朝を開いたのは鮮卑族の拓跋珪。拓跋氏というのは、五胡十六国時代に「代」という国を統治していたのですが、早期に華北を統一した前秦によって滅ぼされて従属していた豪族です。氐族の王朝である前秦が江南の東晋を攻撃して中国を統一しようと試みた淝水の戦いで大敗して弱体化したのを契機に北魏として独立したのでした。当時は、五胡と呼ばれる匈奴・羯・氐・鮮卑・羌という五つの異民族によって漢民族王朝が南に追いやられて南北朝に分離していたのですが、異民族同士で戦乱状態にあったことから華北の統一はなかなか成し遂げられていなかったのです。
当時の北魏は、北部の平城を都とした一般的な異民族王朝の一つでしたが、第3代:太武帝の時代に華北を統一します。ここまでは中国の一部を統治した征服王朝と特に変わりありません。浸透王朝への移行が行われたのは、その後に6代皇帝:孝文帝の時代が来てからのこと。
 孝文帝は政治的安定を図るために被支配層である漢民族に配慮した漢化政策を行ったのです。儒教的な政治へと変革し、中国の土地制度であった均田制を採用するなど、漢民族がかつてと変わらない暮らしができるような統治を押し進めました。少数の異民族が多数の漢民族を統治する異民族王朝では漢民族の反発によって政治的混乱を招いて衰退・滅亡する例も多かったのですが、北魏は漢民族のアイデンティティを結果的にせよ尊重した政治を行うことで受け容れられた形になったわけです。孝文帝は最終的に胡語・胡服(鮮卑族の衣服や言語)を禁止して完全に漢民族王朝に成り代わるような状態にまで踏み込んだ統治を行ったのでした。さらには都を鮮卑族ゆかりの平城から、後漢の都でもあった漢民族王朝の都として知られた洛陽に遷都。急速な漢化を押し進めました。これらの政策によって北魏は386年から534年までの148年間にわたって安定的に華北を統治することが出来たのです。北魏は漢民族を征服したのではなく、漢民族の中に緩やかに“浸透”することで統治したということですね。これこそが北魏が中国史上唯一の浸透王朝と呼ばれている所以です。
 ただ、最終的に北魏の力が衰えてきた後の代の皇帝:考明帝の時代には鮮卑族の国粋主義的な反発が発生し、六鎮の乱という反乱が発生します。漢民族に同化した結果、鮮卑族の伝統を守り続けていた北部の人々が冷遇されたことで北魏への反感が強まっていたのが原因でした。この反乱以降、有力軍人が大きな力を持つようになり皇帝の権威は失墜しました。最終的に14代:考武帝の代に北魏は、長安を都とした西魏と、鄴を都とした東魏に分裂。これらはいずれも拓跋氏の皇帝が有力家臣の傀儡とされた状態で、結局15年程度しか保たずに家臣によって帝位を簒奪されて滅亡しています。その後、西魏は家臣の宇文覚が帝位について北周、東魏も家臣の高洋が帝位について北斉という王朝に代わっています。このうち、北周のほうは漢化政策を改めて鮮卑族の風習を復活させていったことで知られています。
 この後は北斉と北周、そして南朝の陳が激しく争う時代が続きましたが、最終的に北周の外戚(皇帝の母方親戚)であった楊堅が北周を廃して隋を打ち立て、中華統一を果たしました。


以上、中国華北部に関連した地理・歴史のエピソードでした。この後は個別の世界遺産について一つ一つ見ていきたいと思います。



※当ページで使用している画像はwikipediaからの引用です。
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